わたしは、物心ついたときからおばあちゃんこだった。
おばあちゃんのことはねーねーと呼んでいた。
小さい頃からずっとねーねーと一緒に寝て、ねーねーとお風呂に入りねーねーにずっとくっついていた。
ねーねーは、やさしくていいにおいがして安心して面白くて大好きだった。きれいで自慢だった。

中学生になって一人で寝るようになった。
でもずっとねーねーが一番だった。

大学生のときにおじいちゃんが死んでしまった。おじいちゃんのことはかいぱぱと呼んでいた。かいぱぱのことも大好きで、人生ではじめてちゃんとした人の死に対面した。
このときは、まだ親が隠していたせいもあり持病なども理解していなかったものの、学校から帰ってきたら、冷たくなったかいぱぱがいたとき、あまりの急な別れに膝から崩れ落ちた。
それはねーねーにとってもそうだった。
かいぱぱは、「ばかやろう」が口癖の昭和のかっこいい男だった。口は悪くても仁義に厚く人に慕われていた。そんなかいぱぱのことを尊敬していたしいまでも憧れである。
かいぱぱは、わたしのことをとてもかわいがってくれた。
なにもしないでソファに転がってるだけなのに「ちーは偉いなぁ」と誉めて甘やかされていた。

ねーねーの人生は、ずっとかいぱぱの面倒をみることが中心だった。子供ももちろんだけど、糖尿病を患っていたかいぱぱは心配ごとが多かった。ねーねーとかいぱぱはいつもペアだった。そこにわたしもくっついていた。

かいぱぱが死んでしまったとき、ねーねーは「これからなんのためにいきればいいんだ」と泣いていた。
わたしは、照れくさくてなにも言えなかったけど、かいぱぱが死んでしまった次の日から自分の部屋ではなく、かいぱぱが寝ていたベッドでねーねーと寝るようになった。
ねーねーに生きる意味を感じてほしかった。ねーねーに甘えて、たくさん頼った。ねーねーは人のためになにかをするのがすきなひとで、なにかお願いするととてもうれしそうだった。

ねーねーが寂しくないように、わたしが寂しくないように。かいぱぱのいない寂しさを一緒にのりこえた。

その後しばらくして、すぬーぴーがうちにやってきた。我が家の天使すぬである。
すぬは、わたしのねーねーの間のお布団で毎日寝るようになった。
いつしか三人で川の字で寝ることが当たり前になった。

ねーねーと出かけるのが大好きだった。
家族みんなで、コストコにいくときも、遠足気分でわくわくして小さいおにぎりをにぎってくれた。ねーねーはどんなことでも得意だった。

でもいつも自分のことは二の次で、人の心配をしてばかりだった。
かいぱぱのこと、ママのこと、叔父さんのこと、わたしのこと
なんでも人のためにやるのが好きな人だった。

かいぱぱは病気がちだったけど、ずっとねーねーは病気知らずだった。

そんなねーねーが数年前に白血病で運ばれた。
わたしは心のなかで泣きながらかいぱぱにお願いした。
まだねーねーと一緒にいたいです、おねがいします、治してください。
ねーねーは、奇跡的な確率で白血病を治しおうちに帰ってきてくれた。

うれしかった。
ねーねーと一秒でもなるべく多くの時間を過ごしたいとおもった。
いままで以上に大好きなねーねーのために頑張ろう、一緒に楽しいことしようと思った。

でも今年の夏、ついにあいつにおかされてしまった。
ずっとずっと気を付けてたのに、
ワクチンも5回も打ったのに、
あいつは容赦なくねーねーにとりついた。

最初は軽そうにおもえた。
念のため病院にみてもらおう、というかんじで自分できちんと身支度をして病院にでかけた。
すると、血中酸素濃度が通常よりもやや低い92~3だったため、一応入院という形になった。

コロナなのでもちろん面会はできないけれど、数日おきにiPadで面会させてもらってた。
ねーねーは咳はしてるものの、元気そうだった。
すぐ退院できそうだから、部屋の片付けでもしてて、と言っていた。

症状も改善し、退院日もきまったとき、再び陽性反応、酸素濃度ががくっと下がった。
ネーザルハイフローという酸素流入の太い管をつけ絶対安静状態になった。
なぜかコロナウイルスが暴れだしたそうだ。

ねーねーは、
大丈夫だから心配しないで
そんなことよりちーは平気なの?
とまたわたしの心配をしていた。
どう考えてもねーねーの方が心配なのに。

先生の処置のおかげで、徐々に改善し、再び退院の目処がたってきたとき、また同じことがおきた。
このとき数日のはずだった入院期間はすでに1ヶ月を越えていた。

それでもねーねーはがんばっていた。
大丈夫、ねーねーは心がけが良いから退院するまでもう少しまっててね

そう言ってくれた。

そこから前回よりもまた少し長い時間をかけて回復していった。
今度こそもう大丈夫だと思った。
ねーねーの趣味の編み物の道具をもってきてほしい、とねーねーから連絡がきて、編み物をする余裕もでてきたんだ!と嬉しかった。

でも、現実は残酷だった。
再びがくんと症状は悪化した。

何度も何度も猛威をふるうコロナ。
そのせいでねーねーは、間質性肺炎を併発した。
ネーザルハイフローで絶対安静、動いてはいけない状態だった。二ヶ月を越える長い入院生活で徐々に筋力もおちてきて起き上がるのがやっとの状態だった。
さすがのねーねーも弱音をはいた。
あんなに強いねーねーが弱音をはいた、はじめてだった。
それだけ治療がつらいのだとおもった。

もう戻れないかもしれない、
かいぱぱの夢を見た。
みんなで仲良く暮らしなさい

などまるでもう帰ってこないかのような発言にわたしもままも叔父さんもねーねーとのipad面会のあと落ち込んだ。泣きそうだった。つらかった。

どうにか助けてほしい、わたしたちは病気平癒の神社を探し、祈った。

そして、五月の頭、夜先生から連絡がきた。

ねーねーが必要酸素濃度の上昇、血圧の低下で集中治療室にいったとのことだった。

もって数時間~二週間程度とのことだった。
ねーねーの体力との勝負だと言われた。

わたしはあまりの衝撃で泣き崩れ過呼吸になった。必死で祈ることしかできなかった。

首元から太いくだを入れ、そこから直接薬を入れる処置をすることになった。

先生の懸命な処置で、ねーねーは無事安定を取り戻した。
症状が改善したわけではないけれど、集中治療室から一般病棟にもどることができた。

そこからわたしとママと叔父さんは、病院のそばのホテルをとりいつ何時よばれてもかけつけるようにした。
電話がなるたびに病院からの悪い知らせではないかとびくついた。
そんなぎりぎりの精神状態でも、ふとつけた相席食堂で三人は笑うことができた。
こんな状況の人間でも笑かすことができる千鳥さんに頭がさがった。
叔父さんもすごいなぁすごいなぁと言っていた。


しかしそのあとからipad面会にいっても、あきらかに呼吸がしにくそう、しゃべりにくそうになった。
もちろん絶対安静のまま。
集中治療室にいったせいか、軽いせん妄状態となり、認知症のようにたまに話が通じないときがあった。
直接会えないけれど、ipad面会になるべく毎日いくようにした。
つらかった、苦しそうなねーねーをみるのが。
改善してるとは思えないねーねーに、元気なふりをしてしゃべりかけ、良くなってるからね、もうすこしだからねと言うのが心底つらかった。
それでも希望はすてなかった。

症状の上下を繰り返していたとき、肺炎につかっていたステロイドと持病のせいもあり免疫が低下したことによる敗血症も発症していることがわかった。
コロナ、肺炎、敗血症の三重苦となってしまった。
さすがに弱気になりそうだったけれどそれでもねーねーは帰ってくると信じていた。
毎日あらゆる病気平癒の神社巡りにもいくようになった。

なんにでもすがりたかった。

次第にネーザルハイフローの酸素必要%が80~100%になり、ねーねーが呼吸の苦しさを訴えるようになった。

その苦しさをまぎらわすため、モルヒネのような医療麻薬を使用するようになった。

格段に意識レベルが低下した。
ときどきふっと焦点の合わなくなる目に涙をこらえるのが必死だった。
それでも、
「ちーちゃんに会えるの楽しみにしてるからね」というねーねーに面会がおわったあと泣いた。

ねーねーは帰るのを諦めてなかった。
そんな辛い状態になっても。
この時点で集中治療室でいわれた二週間の余命は越えていた。

そして、ある日の面会の最後、いつもはわたしたちを心配して「早く帰んなさい」というねーねーがもうあまりうごかしにくくなった口をうごかして「ありがとう」といった。

次の日から、意識がもどることはなかった。
うっすらと空いたままになっている焦点のあっていない目をみながら絶望が勝っていたがそれでも奇跡を信じて通った。

毎晩、電話がくるのではとこわかった。
ぎりぎりの精神状態だった。

次第に、酸素量だけではなく血圧も下がるようになった。

そしてついに、夜中病院から電話がきてしまった。
あんだけならないでくれと願っていた電話が。
血圧が70になってしまったので昇圧剤をつかいますとのことだった。

その日、昇圧剤の効果で100以上まで戻った。

しかし、次の日の面会で徐々に徐々に血圧が下がっていると看護師さんに言われた。

覚悟せざるをえない状況になった。

その夜、病院から電話がきた。
危ない状況ですので病院にきてください。

4ヶ月もかけて治療していたコロナは、消えては増え消えては増え、いまでも数値がふりきれるほどの強陽性だった。

最期のためか、はじめて防護服をきてねーねーの部屋にいれてもらえた。

画面越しではなく、4か月ぶりにあったねーねーは変わり果てていた。
薬でむくんで、目はにごり焦点があわず、機械的に呼吸しているだけだった。
わたしは思わず泣き叫んだ。
耐えられなかった。
コロナがゆるせなかった。
コロナさえなければ。
ちーとねーねーとすぬで川の字で寝るんでしょ、いっちゃやだよ!!と叫んだ。
ねーねーと離れたくない、お願いだよ!

最期の面会をおえて、
一度ホテルにもどったとき、これまでついていたテーブルのライトがちかちかっとした。
そしてきえて、またついた。

嫌な予感がした。

その数時間後、願いもむなしく、

6月22日 2時33分
ねーねーは82歳で永遠の眠りについた。

信じられない。
いまでも信じたくない。

ホテルにもどると、テーブルのライトはきれていた。
いまおもえばねーねーが最期に知らせにきてくれたのだとおもう。

かいぱぱは、
9月3日生まれ 6月18日が命日
ねーねーは、
9月2日生まれ、6月22日命日
あまりにも絆の強すぎる二人。
さみしくなったかいぱぱが、つらそうなねーねーをひっぱっていってしまったのだろうか
はやすぎるよ、まだ一緒にいたかったよ

それから涙がとまらない。
冷たくなったねーねーをみて、ねーねーが恋しくてまだ一緒にいたくて信じたくなくて苦しくて仕方がない。

なぜことこまかにこの文章を書いたかというと、このときの感情、状況を忘れたくなかったからだ。
ねーねー、大好きなねーねー
どこにいるんだよ
でもよくがんばった。ねーねーは何度も奇跡をおこした。とんでもなく強いひとだった。すごくがんばってくれた、


これをもしみたひとがいるならば、コロナをばかにせず、少しでも風邪症状がみられたら自粛するようにしてほしい。
コロナ収束したようにみえても、どっかでねーねーやわたしたち家族みたいなひとがいるかもしれないから。

そして、わたしは、千鳥さんのように落ち込みきったとひとの少しでも救いになるような芸人になりたい。